ヴーは猫に起こされて目を覚ました。肉球で何度か頬のあたりを突かれて、ヴーが薄っすらと目を開けると、猫はそれに追い打ちをかけるように短く鳴いた。
その声はいつもより少しだけ低くて太い。ヴーは布団から抜け出して廊下へ出た。床材の楢はひんやりとしていた。何処からか初夏にしては冷たい空気が流れ込んでいた。窓の外では朝と夜とが入り混じっている。夜であると同時に朝の気配がした。濃い靄は巧妙に光源を隠していた。どこから来るのか判らない微かな光が森のシルエットを空に浮かび上がらせていた。それは一日の内でいちばん静かな時間であるように思われた。
猫に導かれるようにしてヴーは階段を降りた。
こんな風に明け方に猫が起こしに来るときというのは、たいていの場合は猫が早めの朝食にありつこうとをせがむ時なので、ヴーはそのまま台所へ向かう。袋から猫の餌を皿に出す。
猫は静かに皿に近づいた。すぐに食べ始めるかと思いきや皿を覗き込んで、鼻を数回ひくつかせただけでその場を離れてしまった。
「どうしたの?」とヴーは猫に声をかけた。猫はその声には反応を示さず、ヴーと目を合わせることもなかった。そして入ってきたのとは別のドアを通り抜けて奥の部屋へ入っていった。そこは居間だ。
ヴーも慌ててその後について部屋に入る。居間に足を踏み入れると床材が軋んで音を立てた。古い家だ。完成して人が住み始めて何年が経ったのかは分からなかった。築百年とも二百年とも聞いた。何人がこの家で生まれたのか、暮らしたのか、そして、死んでいったのかは誰も知らなかった。何度も改修工事がされ、その度に元の姿からはかけ離れていくのだった。この家の最初の姿を知っているのは誰一人としていないだろう。
ヴーの祖父は若い頃、どこか大きな街で大工をしていたらしい。腕はそれほどでもなく、まぁ、普通の大工さんだったようだ。そして理由あって祖父が街を離れたとき、なけなしの貯金を使って当時ボロ屋だったこの家を買ったのだという。 屋根は崩れ、床は抜けていた、それを祖父と父とがとが一緒になって直したのだ。
彼らはまず台所を直した。そこは単なる調理のための空間ではなかった。彼らはそこで眠り、起き、客を招き、食事をし、おしゃべりをした。そこは彼らの生活のすべての舞台だった。父がまだ少年だった頃の話だ。そういう話をかつて、父は酔ったときにしてくれた。古くて傷だらけの床だったけれど足の裏の感触は柔らかだった。けれど、やはり夏にしては驚くくらい冷たかった。居間に入ると猫はその床を嗅ぎ回っていた。猫が床の匂いを嗅ぐときというのは、トイレに行きたい時だと聞いたことがあるけれど、今はそんな風には見えなかった。
猫は床の匂いを嗅ぎながら、一歩、一歩、と部屋の奥に歩き進んでいく。そしてひとつのドアに行き当たる。猫は尻尾を高く上げて伏せ、扉と床との隙間から向こうの部屋を覗き込もうとしている。立ち上がり、カリカリとドアの縁に爪を立てた。
「どうしたの?」とヴーは再び言った。
今度は猫も返事をするのだった。ヴーの目をじっと見つめ、長く鳴いた。そして眼の前のドアを開けるようにヴーにせがむのだった。
ヴーは少し間をおいて、ドアノブに手をかけた。その部屋に入ることは母親に禁じられていた。そこは父がかつて絵を描くのに使っていたアトリエだった。
ノブを回し、ドアを押す。ギィと音を立てて扉が開く。戸の隙間から油絵具の香りが漂い出てきた。ねっとりとした重みのある、少しだけ甘い香りだった。その香りがヴーの鼻をつんと刺激した。その香りと入れ替わるようにして、その細い隙間から猫は部屋へ入っていった。音は全くしなかった。ヴーが部屋に入るとそこは仄かに明るかった。どこから光は来ているのだろう、ヴーはそう思いながら部屋に足を踏み入れる。床に積もった埃が舞い上がった。ちらちらと細い糸くずが光を反射しながら宙を舞っている。
猫は机に飛び乗って、窓の外を熱心に見つめている。何かがいるのだろうか。夜の生き物が庭をうろついているのかもしれなかった。ヴーも同じ窓から外を眺めた。何もいなかった。静かな夜だった。その世界に生きているのはヴーと猫だけみたいだった。 ヴーは机の上に目をやった。机の上には色々なものが雑然と置かれていた。ついさっきまで人がいて、作業をしていたかのような臨場感があった。数枚の紙が広げられ、その上に硬さの様々な鉛筆が数本、どれも鋭く削られた状態で転がっていた。右手側に水彩絵具のパレットが広げられていた。その脇に絵具を溶くための水を入れていたガラス瓶が置いてある。瓶の水は干上がっていて、底の方には顔料の跡が丸い円となって残っていた。ヴーは無造作に広げられた紙束のうちの一枚を手に取った。それはひとりの少年を描いた絵だった。
全体がぼんやりとした絵だった。赤い背景の中に少年の像がぼんやりと浮かび上がっていた。目、鼻、口、その他のパーツのなんとなくの位置はわかるのだけれど、形はどれもはっきりしなかった。目を開けているのか、瞑っているのか、口は開いているのか、閉じているのか判らなかった。どちらのようにも見えた。それは不思議な絵だった。
ふと、目の端を光が横切ったように感じて、ヴーは絵から目を上げ、窓の外に視線を移した。流れ星だろうか。それにしては明るすぎた。そんなヴーの動作に釣られるようにして猫も何かを視線で追った。暗闇に目を凝らしたが、やはり、何も見えなかった。そこには静かな夜が広がっていた。いや、夜はもう終わっていたけれど、まだ朝は来ていなかった。
そして、ヴーは声を聞いた。
「オイデ…オイデ…オイデ…」
(続く)