JUNOTA

<<未明の王国#3>>

太田潤 2024-55
キャンバス、油絵具 410×31 2024-06-30

 森の奥へと続く道は緩やかに傾斜していた。ヴーは裸足だったが、地面は柔らかく、足の裏は少しも痛くなかった。というよりも、足の裏が麻痺しているかのように無感覚だった。足は地面を感知することができなかった。痛みはおろか、くすぐったさもなく、足が地面に触れているのかどうかもよく分からなかった。それは、まるで夢の中を歩いている時に似ていた。自分の足で歩いているというよりも、むしろそれは、自分の視点で移動を続ける映像を見ている感じがした。先をゆく水の人たちは不安定な形を保ったまま進んでいった。時おり、バランスを崩した水の人が倒れ込む、ばしゃん、という音の他に音は無かった。鳥も鳴かなければ、虫いっぴき鳴いてはいなかった。森の中はほの暗かった。父のアトリエで感じたのと同じ光の感覚だった。どこにも光源はないのに、すべてのものがくっきりと鮮明に見えるような気がした。その、微かな光を浴びて、水の人々は微かに光を帯び、自ら発光さえしているように見えた。事実、そうだったのかもしれない。
 オイデ、オイデ、オイデ、コッチヘ
 先頭を行く少年の声ははっきりしていた。その声がどこから来るものなのかは全くわからなかった。とても近くからという感じもしたし、ずっと遠いところで発されたものという感じもした。ヴーはその少年の声と森に満ちている光との間に共通するものを感じた。どちらも、妙にはっきりとしてヴーには感じられたのだが、それがどこから来ているのかがよく分からなかった。
 どのくらい歩き続けただろう。ずいぶんと歩いたようにヴーは感じた。家を出た時点で、夜はもうじきに明けるものと思っていたのだが、太陽は一向に顔を見せなかった。日の出の時刻になれば、頭上を覆う、木々の葉の隙間から白い光が漏れてくるはずだった。更に歩く。三〇分ほど経っただろうか、一時間位は歩いたのだろうか、いやまだ五分かもしれない。いや、五分ということは無いだろう。少なくともやはり、三〇分は歩いたはずだ。すると、もう、いい加減に日が差し始めてもよいはずなのに、相変わらず、森の中は暗い。
 いつまで、歩くの?
 ヴーは呟いた。
 ソノトキマデ
 返事が帰ってきた。
 返事を期待していなかったヴーはその声を聞いて驚いた。
 誰だい君は? 僕の声が聞こえるの?
 ヴーはまた小さな声で言った。
 ボクハ キミヲ ムカエにキタンダ
 声は言った。その声がどこから聞こえてくるのかは相変わらず、ヴーにはわからなかったけれど、自分が今、誰と話しているのかはわかっていた。先頭を歩くあの、少年だ。
 ここは、どこなんだろう? どこへ向かっているの? 今は一体何時なんだろう?
 その声と会話できるということがわかって、ヴーの頭の中には、様々な疑問が湧いてきた。
 オイデ、オイデ、ソノママ、オイデ
 声は質問には答えなかった。
 まだまだ聞きたいことはたくさんあったけれど、その返事を聞いて、ヴーは諦めた。とにかく今は彼についていくことに決めた。
 そして、ふと、ヴーは自分がどうしてこの不思議な群行に参加しているのか疑問に思った。どう考えても、それは危険な行動だった。夜の森は危険だ。なんの準備もせず、裸足で、夜の森に入るのは無謀なことだった。考えてみると、なぜ、僕は歩き始めたのか、記憶がなかった。歩き始めた時の記憶、少年の呼びかけに応じて水の中を進み始めたときの記憶を思い出すことが、ヴーにはどうしてもできなかった。
 今、ヴーは正気を取り戻していた。怖かった。夜の森は生き物たちの世界だ。そこには色々な生き物がいるはずだ。鋭い爪や牙を持つ大きな者も、足元を蠢く小さな者も、みな、夜の闖入者を狙っているはずだった。しかし、いま、それらの気配は全くしなかった。この世界のすべてのものが、昼行性の者も夜行性の者も、全員深い眠りに落ちているかのようだった。あるいは、生き物を深い睡眠に導入する気体が森全体をすっぽりと覆ってしまったような雰囲気があった。みな、静かに、穏やかに寝息を立てている。それが、夜の明けない森をいっそう不気味にした。
 あの時はどうかしていた。ヴーは急に胸がざわつくのを感じた。帰らないと、という言葉がヴーの頭をかすめた次の瞬間には、帰りたい! とヴーは強く願っていた。引き返そう、ヴーはそう思った。そして、ヴーは足を止めた。
 しかし、ヴーはそのまま、それまでと全く同じ速度で進み続けた。ヴーの両方の足は、森の表面に埋まっていた。ヴーはそのまま進み続け、周りの風景は一定の緩やかな速度で後方へと流れていった。同じ風景が繰り返し流れ続けているように感じられた。ヴーは歩くのをやめたが、この不可思議な運行からは逃れられなかった。
 このときヴーは不思議な感覚に捉えられていた。自分が前に進んでいるのか、それとも自分はその場所に留まっていて、風景が後へ流れているのか分からなかった。足はもう、森の表面と一体化していて引き抜くことはできなかった。まるでヴー自身がこの黒い森に生える一本の木になったような感じがした。そのまま、ヴーはその不可抗力的な運行にしばらく乗っていた。あるいは、何か、がそこへ流れ着いてくるのをその場でひたすらに待った。
 それは森の奥の方からやってきた。それはヴーが期待していたものではなかった。つまり太陽ではなかった。まだ夜は明けていない。
 そこには大きな黄色い光の球体が地際に浮かんでいた。表面はゴツゴツとしていて、ぼこぼこと無数の窪みがあった。それは砂を固めたもののように見えた。それは月だった。その球体は美しく上品に光を放っていた。表面はゴツゴツ、ザラザラとしていたが、そこから放たれる光は柔らかだった。強い光源体に黄色みがかった半透明の薄膜を巻いたもののように見えた。ヴーは間近で見る月の美しさに目を奪われた。瞬きもせず、徐々に近づいてくるそれを見つめた。ヴーが月に近づいているのか、それとも月の方がヴーに迫ってきているのかという問題はもはや彼にとってはどうでもいいことだった。少なくとも、ヴーはその時、眼の前にある巨大な砂の塊にもっと近づきたいと願っていた。そして、それは叶えられた。近づくにつれ、その球体の引力は強くなっていくようだった。ヴーと水の人々は、歩いて向かっているというよりも、むしろ、その球体の方へ押し流されているといった方がいいくらいだった。
 球体は大きかった。すぐに、その全体像を視界におさめることができなくなり、視界はすべて、その柔らかい光で埋め尽くされた。視界のすべてが光に満ち、比較する対象を失ったので、その瞬間、すべてのものが静止しているように感じられた。その光の海から、ヴーは目を離すことができなかった。光は徐々に強くなっていく――。

 気付いたとき、ヴーは球体の内側にいた。そこは光に満ちていた。月の内部はすべすべとしていて柔らかく、弾力があった。
 突然、ばしゃん、と何かが落ちてきた。水の人だった。彼は上の方から落下して、月の底に砕けた。そして、水の人は水にもどり、球体の底に溜まった。その水は光り、輝いている。ばしゃり、ばしゃり、ばしゃり、ばしゃり、と何人もの水の人が続々と上から落ちてきた。月の底にの水たまりはみるみるうちに大きくなり、目の前には光る水の満ちた湖が出来上がった。球体の壁面はその光を拡散していた。その水は冷たくもなく、暖かくもない。それはヴーの体温と全く同じ温度の液体だった。ばしゃり、ばしゃり、何人もの水の人が水に還っていく。そして、球体は光と水で満たされていった。
 ヴーは半分虚ろな意識でその水の中を漂っていた。冷たくも暖かくもない液体の中で、光に包まれて、ヴーは眠った。そこには、何か音楽が流れているようだった。そこには明確な旋律のようなものはなく、それは単なる抑揚するノイズの集合のようだった。それがなぜか不思議とヴーには心地よかった。

 球体は光る水で満ち、音もなく地上を離れた。とつぜん重力がなくなったかのように、つなぎ留められていた気球が離陸するように、それは不思議な力で浮遊した。そして、それはそのまま、西へ西へと進んでいった。その球体が地平の彼方に沈んでゆくと、その時になって、やっと森は朝を迎えた。

続く