JUNOTA

<<未明の王国#2>>

太田潤 2024-19
キャンバス、油絵具 410×318mm 2024-05-31

 声を聞き、ヴーは飛び上がった。
 振り返る。
 何もいない。
 そして、もう一度声を聞いた。
 「オイデ…オイデ……オイデ…」
 
 ヴーはあたりを見回した。が、やはり何も見当たらなかった。窓の外では黒い森が揺れていた。静かだった。
 突然、猫が駆け出した。部屋を出て台所へ入って行く。おそるおそるヴーも猫について台所に入る。そこに猫の姿はなかった。冷たい風が流れ込んでいた。見ると、勝手口のドアが細く開いていた。猫が開けて出て行ったようだった。
 ヴーはドアを更に押し開けて、外へ出た。風が吹いていた。森の木々が黒い塊になって揺れていた。地面は湿っていた。刈りたての草の匂いが充満している。
 また声がした。
 「オイデ…オイデ…オイデ…」
 あたりを見回す。
 庭と森の境界あたりに座って森の奥を見つめている猫を見つけた。その視線の先は暗闇だった。風が強くなり、葉が音を立てて揺れ始めた。
 「オイデ…オイデヨ…オイデ…」
 森の奥に広がる闇をヴーも見つめた。どうもそちらから声がするようだった。
 ちゃぷん、水の跳ねる音がした。ヴーは足元に視線を下ろした。そこは水の中だった。見渡す限りの地面に薄い水の層ができている。ヴーの素足の表面を澄んだ水が撫でた。その水は冷たくもなく、温かくもなかった。
 ちゃぷん、ちゃぷん…
 水は小さく揺れていた。無数の小さな波が立っては消滅した。
 「オイデ…オイデ…オイデ…」
声がした。今度ははっきりと、森の方からの声だった。見ると、木々の幹の隙間に少年が立っていた。それは先ほど、父のアトリエで見た絵の中にいた少年だった。実際に、絵に描かれていた通り全体がぼんやりとしていた。
「オイデ…オイデ…オイデ…」
 声を聞き、ヴーを取り囲むように流れていた水の流れはさらに早くなった。水量も増したようだった。もう水はヴーの踝の高さまで上がっていた。
「オイデ…オイデ…サァ、オイデ…」
 少年の呼びかけに応えるように、水はもこもこと盛り上がりだした。さっきまで、ただの波のようであったものが、今ではまるで意思を持った生命体だった。それは水柱のように水面から続々と持ち上がった。少年が呼びかけるごとに水は粘度を増すようだった。次第に水面から持ち上がる量が増え、それは墓石のような形を成すようになった。ヴーの背丈ほどまで上がると、重力に負けて水面に砕けた。いつしかそこに手足が生え始めた。そして、それはのそりと立ち上がった。それは半透明の人間だった。気づくと、ヴーはそういう無数の人々に取り囲まれていた。
 「オイデ、オイデ、オイデ。」
 森の奥から少年が声を掛ける。
 水でできた人間たちは、ゆらゆらと、不安定な形を保ちながら、声の方へ進んでいく。ばしゃり、ばしゃり、と幾人かは形を維持できずに水面に崩れた。ヴーはその飛沫を浴びた。と、ある水の人がヴーの背後から近づいてきた。進路上にいるヴーには気づかないように、一定の速度で進んできた。渦巻く水の中でヴーは身動きが取れなかった。水の人は、のそりのそりと不安定ながらも着々と進んでくる。そしてヴーをその身体で包み込んだ。ヴーの髪は水の人の内部で一瞬浮かび上がった。呼吸ができなかった。水の人の身体の中は無音だった。ヴーはその無音の中で再び、少年の声を聞いた。「さぁ、君もおいでよ。」それは一瞬の出来事だった。次の瞬間には水の人はバランスを失って崩れた。ヴーは全身濡れていた。ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん――
 ヴーは森へ向かって歩き出した。波紋が彼を中心にして同心円状に広がった。無数に進みゆく、水の人の群れに混じって、ヴーは進んだ。後ろからはまだまだ、たくさんの水の人が生まれているようだった。
 ヴーが森の入口に差し掛かろうとする頃、例の少年はくるりと向きを変えて、森の奥へと進んでいった。彼の動きには音がなかった。
ちゃぷん、ちゃぷん、ちゃぷん、ばしゃん、ちゃぷん、ばしゃん――――無数の水の人が立てる水音だけがあまりに響いた。それはちょうど、日の出の時刻だった。

 日の出とともに、ヴーの母親は目を覚ました。
 何か、水にかかわる夢を見たような気がした。内容は何も覚えていなかった。
 彼女はベッドから出て、足の指先で床に触れて驚いだ。その床は一面、水に濡れていたからだ。板の間ぜんたいが濡れ、カーペットは水気をたっぷりと含んでいた。彼女が床に下り立つと波紋さえ広がった。母親は目を見開いて言った。
 「あぁ、なんてこと! これは、あの時と同じ。」
 母親はぴちゃぴちゃと水を跳ねさせながら寝室を出た。階段をおり、台所の勝手口から外へ出た。ドアは開いたままになっていた。
 朝日が輝いていた。雨も降っていないのに、地面はぬかるんでいた。そこに、母親は息子の小さな足跡を見つけた。裸足だった。それに並行するように猫の足跡も残っていた。そして、その足跡はしばらく行ったところで、ぷつりと途切れていた。彼らはそこから先へ後ろへも行かなかったのだ。庭の真ん中で、忽然と姿を消したのだった。遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。それは文句のつけようのない、素晴らしい陽気の朝だった。

(続く)